日本での高麗人参栽培

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日本に高麗人参が初めて送られてきたのは奈良時代といわれています。
当時の朝鮮半島を支配していた王様が、聖武天皇に送ったといわれており、それ以降日本にも高麗人参の効能が広まったと考えられています。

そんな高麗人参の栽培にチャレンジした一族が日本にいます。
その一族とは、江戸幕府で有名な徳川一族です。
驚く事実ですが、日本で高麗人参の栽培に本格着手した第一人者は、徳川家康であるといわれています。
※豊臣秀吉が研究していた高麗人参栽培の情報を得ていたともいわれています。
今回は、そんな徳川家による高麗人参栽培について皆さんにご紹介させて頂きます。

健康マニアだった徳川家康

徳川家康は特に健康に気を配る「健康マニア」として有名なのを御存じでしょうか? 医者が負けてしまうのどの知識を持った「医学通」で、当時の薬剤専門書である「和剤局方」を肌身離さず持ち歩いていたそうです。
持ち歩くだけではなく、その内容をほぼ覚えてしまっているほどに詳しく記憶しており、自身が病気になった時は、その知識を生かして自分で調剤した薬を飲んでいたという記録が残っています。

さらに、調合する薬を作るため、薬草の栽培に乗り出し、駿府城在城時に駿府御薬園を設立します。
薬草の栽培にまで手を出す程、熱心に健康について勉強していた勉強家。
それが、徳川家康なのです。

輸入に頼らざるを得ない高麗人参を、日本国内でも栽培できないか・・・。
薬草栽培に乗り出していた家康は、当然そこに目を付けます。
家康自身も、貴重な高麗人参を毎日煎じて飲んでいるほど、その効能を理解していました。
しかし、古代中国や韓国でも苦労の連続だった栽培を、この日本で成功させることは難しく、結局の所、家康は人参の国内生産を成功させることはできませんでした。
記録によると、どうしても種子を発芽させることが出来なかったそうです。
その熱意は、孫の徳川光圀(水戸黄門)にも影響を与え、光圀も栽培にチャレンジするのですが、こちらも発芽に失敗してしまいます。

意志を継いだ徳川吉宗

しかし、後の子孫がその目標を達成させます。
それが、徳川八代将軍「徳川吉宗」です。
吉宗は、朝鮮半島から「人参の種と苗」を入手することを対馬藩(現在の長崎県)に命じました。
対馬藩が入手した種と苗を使って栽培にチャレンジし、みごと栽培に成功します。

栽培技術が人参を薬草として使えるレベルにまでなった段階で、その種を各地の大名に分け与え、栽培を推奨したのです。
各地の大名は、その種を「御種(オタネ)」と呼んで栽培に着手しました。
人参は現在の日本でも栽培されているのですが、そのルーツを作ったのは、なんと吉宗だったのです。
日本の産地では、高麗人参の事を「オタネニンジン」と呼ぶ地域があり、吉宗が推奨した「御種」が語源であるといわれています。

「暴れん坊将軍」と言えば、誰もがご存知の「徳川吉宗」。
そんな吉宗が日本での人参栽培に貢献した人物だったことは、あまり知られていません。
こうして、それまで輸入でしか手に入れられなかった高麗人参を日本でも手に入れられるようになったのです。

徳川家康から吉宗までの長きにわたる研究結果が実を結び、今日の日本の高麗人参栽培に繋がってきた事実は、実に興味深いものです。
育て方を広く大名に公開した吉宗の行動は、以降の多くの日本人を救ってきたのではないでしょうか。
(参考)徳川家康と高麗人参http://www.orthodoxtapes.org/tokugawa.html